4
- 2016/04/09
- 20:16
荒野を横切るひとつの細道があり、曲がりくねって、はるか彼方に消えている。
その先には怒りの谷があり、煉獄への入口がある、と。
二十二歳の僕はイメージの中のその道を見つめながら、
僕の人生は余禄の命だと心に決めた。
その荒野はキリストとサタンの戦いの場で、
それはいつも、海に浮かんだ海藻のように波打っている。
不安と居たたまれない悲しみとが同居する精神状態の中で、
羞恥ともつかぬ微笑の兆しのようなものが口元に漂っていた。
若さは神の恵みである。
いらいらとあてもなく燃えさかる石炭の火には、そういう囲炉裏が必要だった。
このひと時のために巧みに仕組まれたという出来事があった。
とても長い時間をかけた深い洞察の結果つむぎ出された言葉がある。
僕は神を信じなくなった。
そして僕は神になろうと誓った。
苦しみの混じった香ばしい言葉は、僕のニーチェ的な才能の一端をよく表している。
あるいは、ユゴー的な全方位性をよく表しているとも思われる。
気分次第で霧散も揮発も沈殿もしてはならない、
たとえそうだ、もう、人生の辛さから泣いてはならない。
それからはオーケストラのフェルテシモのように言葉を探した、
心の底の糸が自然と切れるような愛を探した。
それから余禄と言いながらも何度か死にかけた、
睡眠時間をあまりに削り過ぎてバイクで居眠りをやらかした。
いまでも、それは正しい答えだったのかと思うことはある、
いまでも、最善なのはその時の免罪部としての効能だったのではないか、と。
けれど、僕は正直に生きようと思った。
もう自ら命を断とうとすることはないだろう、と。
立派な人間になろう、
そして眼を見開いて、やさしい人間になろう。
でも、僕の命が自分のためにあったことなど一度もない。
僕が生きている理由を僕が知ることなど絶対に出来ない。
スポンサーサイト